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無題翌朝病院へ行った。父は透析に行っていた。 ゴミ箱には父がつけていた計器につなぐコードなどが入っていた。 「転院を前にすでに内科では データを取ってないのか」と思った。 しばらくして父が病室に戻ってきた。 紙のマスクをしていた。父がつけているのを初めて見た。 健康な我々がつけても息苦しいものだった。 転院後も常に鼻から酸素を吸入していたが、 父のMRSA が他の人に 感染しないようにするための病院側の対策である。 透析中ずっとつけていたのか疑問に思った。 救急車を待っている時、 部屋で「苦しい」と言っていたのを病室の外から聞いていた。 気にはなったが、個室にもかかわらず、 マスクをはずしてあげられなかった。 救急車に乗るとき、前にいた病院までの15分くらい 酸素吸入が出来ないとの話があった。 付き添いの医師が同意した。 それでも大丈夫なのだろうと思った。 長い間、父が世話になってきた病院に帰ってきた。 個室ではなかった。 主治医に呼ばれた。移動によってかなり悪化したらしかった。 話は最後まで 手術をしなかったこと等に対しての説教だった。 父のそばに戻り、「マスクをはずした方がが楽じゃない?」と父に聞いた。 近くにいた看護士が医師に伝えてくれたようで、はずされた。 他の患者さんたちに移動していただいた。 長い間みてくれた医師だからこそはずしてくれたのだろうと思う。 が、説教より優先してほしかった。 胸痛も苦しさもあるようだった。薬を使った。 夜にかけて呼吸が荒くなっていった。呼吸が止まる事もあった。 翌朝また肺炎を起こしているといわれた。 唇の色も悪くなってきていた。 その日の大半は兄に病院にいてもらった。 転院できるかはとにかく、 別の病院へ行くための資料をもらうために動きまわっていた。 父は話せる状況ではなかった。 呼吸はひどかった。 午後五時過ぎに酸素マスクをつけた。脈拍が120以上で推移していた。 午後十一時半近くになって完全に呼吸が停止した。 話しかけた。 父は目を開けた。そして少しして目を閉じた。 目にくまは出来ていたが、むくみもなく、父らしい穏やかな表情だった。 前日の夜、「大丈夫?」と父に聞いたとき、 「うん」と言うようにうなずいたのが父との最後の「会話」になった。 October 15 無題病院で指定された時間ぎりぎりまでどうするか 決められなかった。 父には、賛成できないけど 父さんが受けるほうがいいと思ったらOKすると伝えた。 それがよくなかったのかもしれない。 夕方になって透析から帰ってきたばかりの父はぐったりしていた。 父は前の病院に一度帰って、主治医と相談がしたかったらしい。 前の病院に電話して聞くとしても、データを見せられないから電話もしなかった。 それもよくない判断だった。 結局前の病院に戻ることになった。 シグマートという薬が効いてる内は大丈夫と思っていた。 父がMRSAを保菌しているというのは 前の病院に戻ると伝えた後初めて聞いた。 また前の病院と同じように、 通院して透析できる可能性はまったくないとは言えないという話があった。 手術予定日だった日から血液検査はやらなくなった。 また発熱した。37℃超えていた。水枕で冷やした。 様子が変だった。何か言われたのか心理的にも通常ではなかった。 少量だが食事はした。 その日、前の病院にいって主治医に会おうとしたが、いなかった。 翌日、透析後転院となっていた。 October 14 リスク後で聞くことになるMRSAは悪さはしていないとのことだった。 手術が火曜に決まった。 外科からの説明が日曜に行われることになった。 転院直後から外科の話を待っていた。 外科の話は大半がリスクについてだった。 ハイリスクハイリターンのリターンは一言ですんだ。 術中術後の動脈瘤破裂や敗血症の可能性など、リスクはきりがなかった。 外科は手術を望んでないとも受け取れなくはなかった。 さらに気になったのは、二箇所の問題部位のうち 一方は冠動脈の石灰化によってバイパスが難しいとのことだった。 また、基本的に人工心肺を使うということだった。 父は転院以前から腰痛を訴えていた。 動脈瘤の裏の辺りだったが、 以前は、ベッドで起き上がったりしてるうちに痛むという程度だった。 それが、その日横になってるときに ズキズキ痛むと言い出した。動脈瘤もよくないのかと思った。 翌日、執刀医から話を聞くことが出来た。 二箇所ともバイパスは必要だが 出来るかどうか、切ってみないとわからないという様子だった。 大きな手術をしても完全にバイパス出来ないリスクも出てきた。 手術をどうするかという問題が残った。 時間的猶予、他の病院で受け入れてくれるかということで言えば 火曜に受けることをためらう必要はなかった。 が、術後短期間で亡くなる あるいは術中に亡くなる人もいる大手術であるというイメージが 脳裏を離れなかった。 父の体力、動脈瘤を含めた病気のこと、 一方しか出来なかったときの手術の意味を考慮しても 低侵襲な手術を受けるのがいいと思えた。 それを後押ししたのは 一週間前から使っている新しい薬が効いて安定していると、 数日前に言われたことだった。 October 13 最後の金曜日バイパス手術はやらざるを得ない状況になったと言われた。 ハイリスクハイリターンの手術を取るか ローリスクローリターンの薬物療法を選ぶかと言う選択肢はあるとのことだった。 転院して来た頃とは 父の状況が変わっていた。 前は自分で起き上がっていたのに、起き上がれなくなっていた。 寝たきりでの体力低下、肺炎による体力消耗、 食事が摂れない事によるもの、心機能に関わるものなど色々あっただろう。 特に肺炎については、平均体温の低い父には37℃でも微熱とは言いがたく、 実際はもっと高い熱を出していたのだから。 炎症反応も熱も抗生剤投与から大体一週間で下がった。 が、すぐ再び炎症反応が上がったらしかった。 抗生剤を変えるといわれた。 金曜日に予定していた手術がまた延期になった。 金曜になり、病室へ行った。 抗菌用のマスクや手袋などを着用するようにと指示があった。 何日かして聞いた話では、MRSAを保菌してるとのことだった。 MRSAは抗生剤を使ってるとやむをえないものだと言われた。 確かにカルベニンだのゲントシンだの色々使っていた。 October 12 転院して2週間転院後、調子のいいときでも苦しいと言うことがあった。 点滴が嫌と言ってもすでに何種類か入れていた。 その日初めて病室へ行ってみて 点滴の薬品によって昨晩はどうだったということを想像したりした。 肺炎のための抗生剤も何種類か使うようになった。 肺炎の発症で動脈瘤、 腸のことと並んで手術をするにしてもよくない材料が出てきた。 中心静脈栄養については ブドウ糖のカロリーはしかし相当少なく、他には脂肪を入れることがあった程度だった。 痰はあまり出なかった。 IVHにして数日、一日30分くらい蒸気を鼻や口から吸入した。 それを手伝った日があった。 吸入しているときに母のことを思い出した。 マスクのようなものは始めから、口や鼻から多少離して持っていた。 途中で「苦しいからやめてくれ」と父が言った。 さらに離して、かつときどき普通の空気が吸えるようにしてみた。 翌日、医師に呼ばれた。肺炎はよくなっているとのことだったが、 狭心症の波形が心電図に見られると言われた。 別の狭心症の薬を使うと言われた。 前夜の蒸気吸入を終えてから30分ちょっと過ぎて起きたらしかった。 蒸気をいれた時父が苦しがったがそのせいかと聞いた。 そのせいである可能性はあるとのことだった。 また自分のせいで父にダメージを与えた。 バイパス手術は肺炎のため再び延期となった。早くやるほうがいい手術と聞いていた。 October 11 中心静脈栄養熱のせいか、数日あまり食べていなかった。 父はアイスが好きだった。 その日の夕方、売店で小さなアイスを買って、 父のところへ持っていった。少し食べると、主治医が部屋に来て 肺炎だと言った。 食事を止め、点滴にすると言われた。中心静脈栄養だった。 IVHではなかったが、母の時のことが頭をよぎった。 母は、点滴だけのせいではないのだろうが、 点滴によって増長されたり 発生しうるタンが固まらないようにするか溶かすかの 作業時に致命的な状態になった。 すでに危篤と言われて、残りも少なかったとはいえ、 処置をきっかけに人が死んでも、「常識的なやり方」でまかり通るのが病院である。 点滴には嫌悪感があった。 父の肺炎が治るのものなのか、 点滴の期間がどのくらいのものなのかは聞いておきたかった。 食べかすなどが肺に行ってしまうのが原因で、 かつ点滴なら栄養を安定して摂取できるため点滴が必要とのことだった。 抗生剤で抑えることはできるとのことだった。 治癒とは言わなかった。 期間は1週間から2週間。 ただ、家族が持ち込んだものを食べるのは構わないと言われた。 嚥下性の肺炎ならとことん禁食にすべきと思った。 当初から食事による心臓への負担を考えていたか、 手術を控えての栄養コントロールのためだったのかもしれない。 点滴を入れるための準備に時間がかかった。大変な作業らしい。 我々が病室に戻ると、父の表情はさえなかった。 点滴の作業もさることながら、肺炎と直接言われたのでは。。と思った。 父に肺炎は治せそうな感じだったと言った。 October 10 ふじの見える部屋血圧の低下は少しはよくなり、 何とか透析はやっていたようだった。 転院三日目に、 父の口から「今日は調子がいい」という言葉が漏れた。 その日はよくしゃべっていた。 横になったままだが、食事が許されるようになったのはその頃だった。 久しぶりの食事だった。 翌日、一般病棟へ移った。 部屋には心電図のモニターもなかった。 朝、富士が見えたと言っていた日があった。 数日後、見舞いに来てくれた人に、 父は「今度はもっとよくなってますから」と言っていた。 本人も我々もよくなっているように感じていた。 一週間位して熱が出るようになった。 リハビリは始まったが、ベッドを降りられなかった。 その週はほとんど毎日透析をやった。 週の中ごろ、透析をやる腕にかなりの痛みがでたようだった。 夕方、発熱とともに脈拍が130を超えた。 心筋梗塞の合併症ではないことを願った。 翌朝、看護師に聞いた。病院では一過性のものと判断したようだった。 October 09 転院帰宅後眠れず、再び病院へ行った。 父は寝ていたようだった。 朝になった。救急車が予定より遅れて病院を出た。違う病院へついたとき、 父は救急車を出るや否や、 「随分とゆれるもんだなぁ」と言った。 昨日よりは楽になったのだったのだろうと思った。 検査後の説明で、心筋梗塞であり、 心機能が通常の50パーセントしかないと言われた。 怪しいところが二箇所ということだった。 発症から4日も5日もたってるので治療はやっても仕方がないという感じだった。 (実際には当日が3日目と変わる) が、翌日カテーテルでやれることをと頼んだ。 翌朝、カテーテルでやるほうが危険と言われて結局何もしなかった。 代わりにバイパス手術を勧められた。 それしか延命の方法はないということだった。 しかし、翌日、バイパス手術も病院側から延期を告げてきた。 心筋梗塞発症の日も訂正された。 同時にまた、延命措置についての同意書にサインをした。 特殊な病室のため面会時間を制限された。父は検査だらけだった。 October 08 生きてる24時間父は、それが普通だろうが、もう長くないと思っていたようだった。 話では入院よりかなり前から、 看護士などに色々お世話になりましたといっていたらしい。 「おわかれ言わなきゃな」「さよなら」と言われた。 が、まだ大丈夫と答えた。父とは違い本気でそう思っていた。 高熱が出ていた。 昼間うなされていた。薬のせいもあろうが、おかしな状態だった。 かなりつらい思いもしていたのだろう。 知り合いが来ると悲しそうな顔をした。 兄と転院しようという話をした。日曜だが主治医がきてくれた。 一度転院の話を断ったこともあり、切り出しにくかった。 転院は了承してくれた。 転院先が決まり、父にも明日転院すると伝えた。 その日の夕食は一口食べた。長い1日だっただろう。 普通に見れば、最後の日になっても不思議はなかった。 |
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